朝の空気がすこしずつ冷たくなり、
山の木々が、光を受けてほんのりと赤く染まりはじめる。
岩手の山あいでは、その頃になると、
栗の実がぽとり、ぽとりと道端に落ちてくる。
湿った土の匂いの中で、
ころんと転がる栗を拾い上げる。
まだ青い殻の棘が、指先をちくりと刺す。
でも、その痛みが、なぜだか心地よい。
手のひらに伝わる重みが、
確かに“秋が来た”ことを教えてくれる。
家に戻ると、台所には静かな光が差し込んでいた。
窓の外には柿の木、
その向こうを、赤とんぼがゆっくり横切る。
流し台の上で栗をざるに広げると、
表面の艶が朝の光を跳ね返す。
ボウルに水を張り、
栗を沈めると、細かな気泡がぷくぷくと浮き上がる。
それを見ているだけで、
時間の流れがやわらかくなる気がした。
包丁の先を鬼皮にあて、
指先で少しずつ力を込めていく。
ぱり、と皮が割れ、渋皮が顔を出す。
すぐに甘い香りが鼻をかすめた。
ひとつ、またひとつ。
地味で単調な作業のはずなのに、
なぜだか心が落ち着いていく。
昼を過ぎるころ、ようやく全部むき終える。
小さなボウルに山のように積まれた栗。
それを見ていると、
まるで自分が秋そのものを手に入れたような気持ちになる。
鍋に湯を沸かし、砂糖と少しの塩を加える。
火にかけると、
最初は静かに、やがて小さく“ぽこぽこ”と音がする。
部屋の中がやさしい甘い香りで満たされる。
外では風が木の葉を揺らし、
遠くの畑からは焚き火の煙が細く立ちのぼる。
湯気の向こうに、秋がふわりと溶けていくようだった。
夕方、炊飯器のスイッチを押す。
今夜は栗ご飯。
白米の上に、むいた栗を静かにのせていく。
炊きあがりの音が鳴ると、
蓋の向こうから甘い湯気が立ちのぼる。
しゃもじを入れると、
ほろほろと崩れる栗と白いご飯がやさしく混ざり合う。
一口食べると、淡い甘みとほのかな塩気が広がる。
噛むたびに、栗の香りが静かにほどけていく。
テーブルの上には湯気の立つ味噌汁。
隣には漬物。
それだけの食卓なのに、
心の奥がじんわりと温かくなる。
子どもの頃、祖母の家では毎年この季節になると、
みんなで栗をむいた。
囲炉裏のそばで、祖母が湯気の立つ鍋を見つめながら、
「急がなくていいからね」と笑っていた。
その声と、包丁の“とん、とん”という音。
そして、窓の外の虫の声。
あのころの秋は、ゆっくりと流れていた。
今思えば、あの“待つ時間”こそが、
いちばん豊かな瞬間だったのかもしれない。
夜になると、外はすっかり冷え込んだ。
台所には、鍋の中で静かに煮詰まっていく渋皮煮。
砂糖が溶けて、琥珀色の泡が立つ。
木べらでやさしく混ぜると、
栗の表面が艶を帯び、ほのかな香ばしさが広がった。
スプーンでひとつすくい、
口に含むと、やわらかく、しっとりとしている。
噛むたびに、栗の繊維の中から
ほのかな甘みが滲み出してくる。
その横で、父が湯呑みに茶を注ぐ。
湯気が眼鏡を曇らせ、
母は「少し焦がしちゃった」と笑っている。
家の中には、古い柱時計の音と、
ストーブの小さな唸り声。
外の風は冷たいのに、
家の中は、不思議なほどやさしい温度で満たされていた。
翌朝、残った栗ご飯をおにぎりにして、
台所の窓辺に腰をかける。
外は薄い霧が立ちこめ、
遠くの山がぼんやりと霞んでいる。
一口かじると、
冷めたご飯の中の栗が、やさしく甘い。
温かいお茶をすすると、
体の奥まで秋が染みわたるようだった。
ふと、指先を見ると、
昨日の栗の皮でついた小さな傷が残っている。
その跡が、なんだか誇らしく思えた。
手間をかけた証。
それは、誰に見せるでもない、
小さな達成の印だった。
昼前、近所の人が訪ねてくる。
「これ、昨日の栗ご飯。少し多く炊いたから。」
ラップに包まれたおにぎりを渡すと、
「わあ、うれしい」と笑って受け取ってくれた。
その笑顔を見ているだけで、
心の奥のどこかがふっと明るくなった。
たったひとつの栗ご飯が、
こんなにも人をつなぐのかと思う。
秋の実りは、いつも静かに、
人と人との距離を近づけてくれる。
季節は移ろい、やがて山は雪に覆われる。
でも、栗をむいた日の湯気や香りは、
冬の間も心のどこかに残り続ける。
便利で速いものが増えた時代の中で、
あえて時間をかけること。
それが、ほんの少しの贅沢になる。
栗をむく音、炊きあがる香り、
茶碗を両手で包むぬくもり。
そのひとつひとつが、
確かにこの季節を形づくっている。
骨董の茶碗に残った最後のひと粒を食べ終え、
ゆっくりと手を合わせる。
窓の外では、薄明かりの中に
ひとすじの煙が立ちのぼっている。
派手じゃない。
豪華でもない。
けれど確かに、心が満たされていく。
山の栗は、
そんな“静かな贅沢”を、
今年もこっそり連れてきてくれた。
